「仕事に意味を加える」、ただ、黙々とやることに成長なし


ある組織への貢献を第一に考え、自分のもっている時間・労力のほとんどを使ってきた。
だからこそ、いまのポジションと成果を得ることができた。
だから、これまでの失敗とは違って、はじめて成功しているようにも思う。
いつも自分のこと・感情を優先させて、回りの空気など読むようなことが全然できていなかった。



だけど、この部分に焦点をあてることは、すでに終わった。

が、いまだこの部分に固執しているから、次にすすめない。
ましてや、この貢献こそが信頼を勝ち得ていることを知っているから、プレッシャーにもなっていて、いらいらしたり、なんでこんなことまでという不満が日々増大している状況だった。


このような状況になっているのも、ひとつの大きな目標に動いている中でなっていることだ。
繰り返しだけど、それは、もう終わった。
次の貢献は、自分がいる組織に対してだ。

「自分は、どんな展望をもっているのか。大きな目標はなんなのか、いまどこらへんにいるのか。
そこらを考えなきゃだめだ」

そういわれて、さっぱり、ピンときていなかった自分だ。


自分は、どんなことを望んでいるのかすら、わからないと思った。

「居場所」「安心感」「自己重要感が大切にされる場所」

そんなところをつくりたいと強く思っていた自分がいる。
そして、「自然の中から学ぶ姿勢」「自然の中から得られる気づき」を大切にしていたいと思った。

「既存の仕組みではなく、新しい仕組みをつくる自分でありたい」とも思っていた。


それを統合する、実現するチャンスがいまあるにもかかわらず、
そのチャンスを活かそうとしない日々の行いである。

細かなことに腹を立て、無駄な非生産的な時間を過ごす、そんな毎日が続いている。


かつて、「私は先生ではない。教育者である。」と40代でいっていた教授がいた。

この人は、自分がどのように覚えてもらいたいのかを形にして表現していたんだ。
自分は、どのように覚えてもらいたいか。

決して、仕事のできるねーちゃんではない。


「人を輝かして、自分自身を輝かしなさい」
「人を暗くして、自分を輝かす、それはまずいだろ」


そんな雰囲気をもっていては、自分が自分に望む「居場所」すらつくることができない。


自分自身が望む以上に、それを望む人たちが回りに集まってきていて、それを提供する側にいて、またはいることを望んでいるにもかかわらず、そのことの認識がまったくなかったことに気がつかされた、今日の出来事でした。


まずなすべきは、いまいる組織の貢献を考えねばなりません。
そのためには、既存の仕事のペースを考えるか、うまく融合させるしか、方法はありません。

これらを理解した上で、トップとの認識をすり合わせ、大きな仕組みにも手立てを打たねば、焦点を変えきれないかもしれません。


私自身は、何が手薄か、ということに労力をさく単独プレーじゃなく、もっとも苦手とするコミュニケーション・チームワークという人間関係に対する貢献を考えないといけません。